製作物への愛着
私が幼い頃、多くの少年がしたように、泥団子に夢中になったことがあります。
どろを丸め、ひたすら磨きます。ざらついた砂の塊が、次第にブロンズのように光ってきます。何の価値もない泥が、宝物のように思えてくるのです。
私は泥団子を大切に箱に入れ、時間を見つけては磨いていました。
時には力をかけ過ぎて、折角の作品を崩してしまうこともありましたが、手をかければかけるほど、成果が見えるこの作業に夢中になりました。
こうした地道な作業は、ソフトウェア開発に通じるものがあります。
私は自分の作るソフトに対して対して、愛着を持つことが大切であると思っています。
ソフトウェアはどこまでブラッシュアップしても終わりはありません。
より良いものを作るには、辛抱強く向き合う必要があります。
常にそのことを考え、改善していかなくてはなりません。
時には、難しい問題に行き詰り、作り直しを余儀なくさせることもありますが、手を掛けただけ完成度が上がっていきます。
ソフト開発とは、本来、泥団子のように、もっと楽しく熱中できる仕事のはずです。しかしながらが、見積もりの難しさと要求される納期の厳しさが、どうしても自分の理想に対し妥協を強います。どんなに思いを込めて作成しても、納期を守れなければ、仕事として失敗となるからです。
ソフトウェア産業が誕生してから、ソフトウェア工学という名の下で、様々な開発手法が次々と発明されてきました。その度により効率的にソフトウェアが作れるようになると期待させられますが、その思いは空しく、開発現場での苦労は一向に改善されません。
もともと、ソフトウェアはハードウェア製品のように工業化ができないとの意見もあります。
確かにソフトウェアは他の工業製品とはまったく違って見えます。常に多様で複雑な応用分野の要求に、未知の最新技術で作成しなければなりません。何より開発開始時点では、完成物のイメージさえはっきりしないケースがほとんどです。
まるで不鮮明な宝の地図を渡された冒険家のように、リスキーで過酷な仕事と云えます。
われわれソフトウェア技術者は、画期的な開発技術が発明されるか、再び職人芸が認められる社会が訪れない限り、この苦しみから解放されないのかもしれません。
もうしばらくは、製作物への思いだけを原動力に、刻々と変化する技術の海原を、未踏の目的地に向かって、自分と顧客の納得を両立させながら、約束の時間までに到達するという、難しい舵取りをしなければならないようです。